2006.12.06

COLUMN

「常識・良識・有識・・・美しい日本へ」

昨日は私用でお休みさせていただいておりました。お客様には大変ご迷惑をおかけいたしました。しかも明日もまた、お休みをいただきます。よろしくお願いいたします。m(..)m

一昨日の月曜日は週明けですのでいつものごとく社内清掃に朝礼・運営会議で12月第一週をキックオフ。お客様サポートやら次期案件の打ち合わせやら健康診断やら・・・。お得意様に来社いただいての当日最後の打ち合わせが終わったのが夜の8時過ぎ。その足で帰郷いたしました。そんな、さも忙しそうな合間をぬってブログのテンプレートを作ったり・・・(本当に忙しいのかよ・・・)ちょっとは12月っぽくなったでしょう?本当は雪なんか積もらせたいのですが、それはまた時間があるときに。

今日も朝からサポート1件無事終了。午後から予定していた打ち合わせが、お客様の都合が付かず、こうしてブログ投稿のお時間となりました。ちょっと投稿の督促などもいただいておりますもので・・・

先日、とある方とお話をしてて頭に浮かんだキーワードが、「常識」「良識」「有識」。3つとも後ろに「識」がついています。

「識」とはなんぞや・・・大辞泉(小学館)によりますと、物事の道理を知ること。

また大辞林(三省堂)によりますと、仏教でいうところの対象を認識する心の働き。六識・八識などが立てられ、仏教の認識論・存在論の基本概念であるとされています。

ということは、一般的なロジックや科学的な解釈だけではなく、東洋人である私たちは「心」のあるべき姿とかでとらえるべきもののような気もします。

「常識(Common sense)」とは、一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。

「良識(Good sense)」とはそもそも日本にはなかった言葉のようで、物事の健全な考え方、健全な判断力を言うらしいです。またすぐれた見識、善悪の判断を下せる社会的につちかわれた見識でもあるそうです。

「見識(Discernment)」とは、物事を深く見通し、本質をとらえる、すぐれた判断力やある物事に対する確かな考えや意見だそうです。

常識は「社会の掟」みたいなものですから、普通に生活しながら社会のなかで学び身につけることは可能でしょう。もちろん社会性というか身の回りに対する柔軟性や向上心は必要ですが・・・。で、良識になるとこれは難しい。「社会的に培われた」というのがみそですねぇ。文明開化から140年あまり、戦後70年近くたつわけですが、激動と変化の時代潮流の中で、私たちはこの「良識」を正しく培ってくることが出来たのでしょうか?それは誰がどのようにして次の時代に伝え、また証左しているのでしょうか?

その良識によって物事を見通し判断することが見識となるわけですから、見識となるとほとんど一般人の私などでは永久に辿りつくことのないいと高き頂きなのです。またそもそもわが国になかった概念だからか、単なる知識だけで「有識」を名乗る族(やから)も多いですよね。

良識。常識を超え、この「良識」を育てはぐくみ伝承してゆくことが、学校や家庭、地域社会という場所を問わず、本来「教育」、つまり子供たちを「教え育てること」に求められることであり、「美しい日本」を築くための基礎体力になるような気がします。そうすれば日本人は世界の中で「見識ある国民」と呼ばれ、信頼されるようになると思うのですが・・・トホホのくせにとんでもないことを考えて、やっぱりトホホでありました。せめて車の窓からポイ捨てだけはやめとこう・・・。(それは常識やろうが・・・!)

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