2007.01.10

COLUMN

「目的と手段」

昨日はこれまでの「防衛庁」が「防衛省」に変わったというニュースをやってました。昨年暮れの防衛庁設置法改正案改正によって行われたものですが、いずれにしても「防衛」あるいは「自衛隊」の存在意義が、これまでの内閣府の業務範疇ではなく諸外国における「国防」としての独立したものを必要としているからでしょう。たぶん・・・

会社の中でも、ある部署配下のセクションを格上げし、独立した部署あるいは事業部とすることはよくあります。ただ、大切なことはやはり総体としての会社のあるべき形としての組織体あるいは明確な果たすべき機能の分化と明文化が必要です。言い換えると、単に履いていた靴が古くなってきたので新しくすると言うことではなく、どこどこを目指すためにはこういう靴が必要になったから履き替える、そういう意味づけが必要なのではないでしょうか?

また単にそこが「これこれをやるから」ということではなく、「全体としてこうあるべき中で、ここの部分をそこが担う」ということが明確になっていないと、業際でコンフリクトが発生するのが常。たとえば「外務省」と「防衛省」の業際は明確でしょうか?また自衛隊が武力である以上、これまで以上のシビリアンコントロールが重要になってきます。私たち国民一人一人に、その意識はあるのでしょうか?私ですか?えーっと、これから考えます、はい。

今日は上杉謙信公家16か条のその3。

「心に欲なき時は義理を行う。」

義理とは、「本音」なのか「建前」なのか・・・「義理チョコ」は「本命」ではなく「ギリ」=「建前」となっていますが・・・「武士道」みたいなものから紐解いてみると。

1.勇敢であること。「義を見てせざるは勇なきなり」「死を覚悟して生きよ」
2.喜怒哀楽を顔に出さないこと。「人前で涙を見せてはいけない」「歯を出して笑うな」
3.謙虚であること。「私事を人前で自慢したり吹聴するものではない」
4.自制心を持つこと。日常生活でも常に凶器を携行している武士は、「ならぬ堪忍、するが堪忍」
5.寡黙であること。「本心はむやみに明かすものではない」として、「はら」が大切にされた。
6.事に当たり好き嫌いや損得から判断すべきでない。「損得勘定」を最も忌んだ。

6つ目の「損得勘定抜き」がどうやら「義理」の思想に通じるようです。

つまり「義理」とは本来は、正義や道理を意味し、武士として当然なさねばならぬこと、すなわち道義的な義務だったのですねぇ。宗教で言う「善行」の考え方です。だから武士は、たとえそれが自分の本心から出たことではないにせよ、「善きこと」であれば「意地」でもやらねばならず、それが「武士の本分」だったわけです。ただ、こうした「義理」の観念はやがて、近代社会の個人主義の名のもとに、「建前」と言い換えられ、その価値はどんどん下がってゆきます。つまり、「たてまえ」ですることは偽善的行為に他ならないということです。

他方、「人情」に従うことは、人としての生まれつきの性情に従って感じたり行動したりすることであり、修行・修養のない者がする卑しい行為とされ、そのために「人情に流される」ことはあってはならず、「武士にあるまじきこと」とされていました。やがてこちらは「本音」という言葉で言い換えられ、「本音」で生きることに価値を置き、そうした生き方こそが人間本来的で自由な生き方であるとして肯定されるようになりました。つまり当時と現代では、「義理」と「人情」の価値の逆転が起こってしまっているのです。

「義理が廃れば、この世は闇だ」という歌もありますが、謙信によれば私利私欲を捨てることで人(武士?)としての生き方が始まると言うことでしょうか?

INDEX

CATEGORY

ARCHIVE