2007.08.03

COLUMN

「川中島の戦い その2」

今日も朝から某所で某講習。今日で1stクールが終了。皆さん、お疲れ様でした。つたない講師で申し訳ありませんでした。午後からは数件のお客様訪問。夏の台風は、「台風一過抜けるような晴天」とはいかないようですが、地元では被害もなくよかったです。

先々週あたりから、本当にまさしく絵に描いたように読んで字の如く「鬼のような多忙な日々」を過ごし、我が「背骨」は「気力」の名に書き換えるべき状態です。週末はしっかりとお休みさせていただきます。(のつもりです・・・)

昨日ご紹介した「川中島の戦い」。信玄と謙信にとって、この戦いは一体何だったのか?

1467年の応仁の乱以降を「戦国時代」と呼ぶのはご存知の通り。彼らの生きていた時代はまさに「戦国乱世」「下克上の時代」でした。幕府権力の低下、各地の豪族の蜂起。彼らの立場は、まさに消え行く幕府権力の最後の守護者と下克上的覇権者の立場でした。どちらもまだ、「天下」や「日本」は見えていない。彼らにとって「国」はまだ、甲裴であり越後でしかありませんでした。

「国は人なり」。それが分かっていても、一日で数千人の死者を出す戦いをしていた。彼らの指揮のもと、戦国時代を通して野草の露と消えた多くの討死者。それは、織田信長から豊臣秀吉、徳川家康に続く天下統一のためには避けることの出来ない犠牲者だったのかもしれません。

まだまだ、国と国との戦いというより「家同士の争い」であったこの時代。戦いに明け暮れる日々。ただ、彼らが一途に争いごとに対する好色者であったわけではありません。

川中島の戦いから戻り、多くの討死者を弔ったある夜。謙信のもとを村上義清が訪ねます。読んでいた「古今和歌集」を置いた謙信は、義春に語りかけます。

「自ら和歌を詠もうなどとは思わぬが、兵馬こうそう(戦争の為に忙しいこと)のあいだにも、歌心はありたく思う。」

「歌心と仰せられますと・・・」

「さて、どういうてよいか。・・・大和心と申さばややそれに似かよう気もする。もっと小さくいうならば、剛に対する柔、殺に対する愛、刹那に対する悠久、動に対する静」

「すこしわかりかけました」

「年々の合戦、日々も戦い。自然と心は一途となる。しかしこの戦国の果て無き末を思うと、例えば長途を行くが如く、高き山へ登るが如く、呼吸の調べが大事と思う。吐く息、吸う息、そして長きを保ち、乱れをしらぬ呼吸。つくづく思う。その大事をな」

私の生きているこの時代も、「戦国乱世」「下克上の時代」のような気もします。無用な危機感を持つべきではないかもしれませんが、「平和ボケ」にはなりたくないので・・・。いえ、いずれアルツハイマー型ボケはやってきますから〜!

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