2008.10.24

COLUMN

「愛の実力」

先日、「愛の実力」と題した講演会を聞く機会がありました。「愛の実力」と言っても、宗教者でも占い師でもなく、また博愛主義者とか人道主義者というのでもありません。とある哲学研究所の所長さんの講演でした。

2時間ほどの講演で私が理解した、講師の先生のお話とは、

1.現代は肉親や我が子を手にかけたり、無差別殺人など人の心が荒れている。

2.その理由のひとつに、哲学がこれまでずっと理性面・論理面からのアプローチしかしなかったことがある。

3.これからは、哲学が理性面とは対極の、感性や感情面から説いてゆく必要がある。

4.そのためには、これまで芸術でしか語られず、しかも答えを出すに至っていない「愛」を情緒面から解き明かしてゆくことが必要な時代になってきている。

とおっしゃりたいのかなと思いました。(間違ってたら、ごめんなさい)

確かに、一理あると思います。

さて、そもそも哲学ってなんでしょう?われわれ一般人には、簡単に答えられない学問が哲学だったりします。Wikipediaによると(以下引用)

「哲学(てつがく、希: φιλοσοφια=愛知)は、前提や問題点の明確化、概念の厳密化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な主題について論じて研究を進める学問の一種。また、そのような思考を通じて形成される立場も哲学と呼ばれる(ソクラテスの哲学、など)。」

そう、かのソクラテス、プラトンから現代に至る、人として差別化される要因を明確にし、論理的(科学的)に証明し、その真理を解く学問と言うことでしょうか?

確かに現代は、さまざまなものが文字化され数値化され、デジタル化され、感情や情緒といったものは、ややこしくて面倒くさくてという時代になっています。

好きな人には携帯で、しかもメールで「好き」といえば済む時代になってしまった。そんな時代だから、文字にならない、一言では語れない、えもいわれぬ不思議な感情、情緒を語り、人々の心をあるべき姿に、優しく柔らかい本来の形に戻す必要があるということは同感です。

ただ、先生は結局のところ哲学者として「愛」を解明するとおっしゃってました。私は、「愛」は本来自然のものでありながら、自然科学でも医学でも、また哲学や心理学でも解けないから、これまで有史以来、数多くの芸術が生まれ、人が悩み、あるものは命を失い、あるものは命を授かり・・・と思うのですが・・・。

「愛」は科学できないから「愛」なのだと思うのです。だから教室で学ぶことも出来ないし、正しい答えなどない。

また講演の中でお話されていたことは、どちらかと言えば宗教的な、あるいは博愛的な「愛」の力についてであり、それと矛盾して人は己の「愛」の為に、人を殺めてしまう弱い動物なのではないでしょうか?

プラトニック・ラブと言う言葉があります。肉欲を伴わない、精神的な愛とでいいましょうか?でも、名を冠するプラトンは、実は男色家であり、当時は美少年を慈しむ少年愛が普通でした。

「愛」とは、永遠の謎である。いや、そっとしておいて欲しいだけかも知れません。愛が科学されたとき、人は恐らく現実に生きなくても、バーチャルな世界だけで存在できる情報の塊に過ぎなくなってしまうと思うのは、ITの洗礼を受けたトホホ者の、ただの幼い危惧なのでしょうか?

週末に、親類の十三回忌があります。人の存在の喪失を通して、「愛」について少し考えてみようと思います。

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