2009.08.20

Books

「考える葦」

ブログのプチ・リニューアルを終え、はてさてどうしたものかと考えてみる。そう、考えているのか、考えているフリをしているのか?

目の前の仕事について考えてみる。社員の手前、難題と向き合っている風に、眉間にしわ寄せ、考えている(フリをして見る)。これは果たして本当に考えているのか?それとも、単に「処理」しているだけなのか?記憶にたまった経験やノウハウを活用して問題を解決したところで、それがどんな難問であろうと、それを「考える」と言っていいのか?

一瞬、背中に悪寒が走る。

「私はいつから、「考え」なくなってしまっていたのか?」

人間が人間たる条件として、フランスの数学者であり哲学者であるブレーズ・パスカルが、「人間は考える葦である」と言ったのは有名なお話。皆さんも、日々さまざまな事柄について考えてますよね。でもそれって、彼の言う「考える」という意味と同じなのでしょうか?

彼は小児期は「人間」ではないと言い切っています。せめて青年期となり、無限の可能性の中に存在する有限な己を知り絶望の淵に立った時、初めて人は物事を考える、つまり外に向かって考えるフリをするのではなく、己の内に向かって己と真っ向から対峙し沈思黙考する。その時から人は始めて大人になり人間になる。

そういう時期を迎えても、そういう問題に突き当たっても、回りに急かされ安直な結論や引用を採用したり、あるいは物事をすべて回りや他人のせいにして、考え苦しむことを回避する。そのようにして生きてきた人間は、「大人」ではなく「恐るべき子供」だと言うのです。

現代はあまりに性急な結論を人に求め、成果を出すことを求め、立ち止まり深く思考する時間も余裕も与えてくれようとはしません。もはや現代人には哲学的な時間など持つすべもない。「モンスター・ペアレント」とか「モンスター○○」という言葉をよく耳にしますが、それらはそんな時間、時期を持ち得ないままに大きくなった(成長したのではない!)まさしく「恐るべき子供」なのです。

愛とは、命とは、時間とは・・・。答えのないそんな問いかけは、有史以来繰り返し多くの、ポアロの言うところの灰色の脳細胞に浮かんでは消え、消えては浮かび・・・。

答えはもはや目的ではなく、それを考えることさえ「人間として生きている」ということの証明、いや最低条件でしかない。

「人間は考える葦である」

あなたは、自己と対峙していますか?そんな時間を持っていますか?週末です。

パンセ (中公文庫)
パスカル

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5死を想え
5好きだ!
4銀座のバー、パンセは哲学する場所か?
5宇宙の永遠の沈黙は私を畏怖させる!

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