2004.09.19

CLASSICS

アントン・ブルックナー 交響曲第5番 変ロ長調(1875年)

5番シリーズ第3回、今回はブルックナーです。60年代のベートーベンやモーツァルト受容の時代から、ちょうどバブルの頃でしたか、マーラーやブルックナーが身近に聞くことができるようになりました。この二人の関係を簡単にご紹介すると、ワグナーに傾倒したブルックナーが第3交響曲をワグナーに献呈、以降この曲には「ワグナー」という表題がつくのですが、ブルックナー自体は標題音楽よりもむしろ、絶対音楽、音楽のための音楽を目指していました。で、この第3交響曲は、献呈後5年を経て初演にこぎつけるのですが、それを聞きに来ていたのが当時17歳のマーラーでした。その後マーラーはこの曲をピアノ用に編曲したり、第6交響曲の初演を行うなど、若きマーラーがブルックナーに対して何がしかのものを抱いていたことは確かです。この3番にまつわるお話は、またいずれということで、今回は5番シリーズにそって、お話ししてゆきます。ブルックナーといえば4番「ロマンティック」か7番がポピュラーなのですが、私はこの5番が一番のお気に入りなのです。

さて、この5番を作曲した頃のブルックナーは、精神的にも金銭的にも非常に苦しい時期でした。知人にあてた手紙には「私の人生は一切の喜びと楽しみを失いました」と書かれてありました。そんななかで最初に着手されたのが、第2楽章のアダージョでした。5番といえばそれぞれの「運命交響曲」となるべく「運命」付けられているというのが私の持論なのですが、彼の場合もまた、自らの苦悩に立ち向かうべくかかれた曲だと思うのです。マーラーが徐々に地位と名誉を手に入れながら5番を書いたのとは対照的に、ブルックナーは自らを見つめ、「苦悩から歓喜へ」を願い、似非クリスチャンであるマーラーとは異なり、敬虔なカトリック教徒らしく、切々と神に願い作った曲だと思うのです。それは第2楽章、ヴァイオリンのG線による演奏を含めた第2主題に込められ、苦悩を自ら曲を作ることによって克服しようとする彼のひたむきな意思を感じることができます。この楽章は、ブルックナーの交響曲全体の中でも美しさの際立ったもので、ブルックナーといえば自然、絶対的なる物、あるいは宗教的探求の代名詞ように言われますが、この曲に関して言えば、彼個人の魂や精神の表出に他ならないのではないでしょうか?もちろん前作の第4交響曲以降、彼の交響曲の特徴である、美しい弦楽の幾重にも重なった壮言な響き、特徴的な金管の音色、そしてオルガンティック(オルガン的)なコラールはすでに確立されています。終楽章の第4楽章はアダージョではありますが、最後は大フーガで、さまざまな主題がコラールにより雄大かつ壮言に響き渡り、彼の歓喜の、勝利の大団円となります。この交響曲は、彼なりの交響曲のあるべき姿のひとつの答えとして、世に送り出されたのではないでしょうか。

〔CD聞いてみてちょ〕
ヴァント指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1996年)
ギュンター・ヴァント。私は彼を「現代のブルックナー」と思っています。実際に逢ったことなどもちろんないのですが、作曲者の人柄に最も近いのではないかと思っています。そんなわけで私のブルックナー・ライブラリのほとんどはヴァント指揮のもので占められているのですが、このアルバムは彼がなんと80歳を過ぎての録音なのです。にもかかわらず、まるで古武士が名刀を自在に操るように、ベルリン響の魅力を最大限に引き出し、ピアニシモでの弦と木管のひそやかな掛け合いや、フォルテシモでも無機質にならないタクト・コントロールなど、作曲者の思いが淡々と、しかし確実に表現された名演だと思います。ブルックナーを環境音楽だと思われている方は、是非この曲をこのアルバムでお聞きください。百数十年前のひとつの魂、ひとつの意思がそこにはあります。

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