2005.02.20
グスタフ・マーラー 交響曲第2番 ハ短調 (1894年)
怒涛のマーラー・シリーズ。今回は第2交響曲です。前回の第1でも、最後まで交響曲か交響詩かで迷っていた彼の創造の表出は、またぞろ歌曲と交響曲の間をも彷徨うのですが、この第2をもって、彼は歌やさまざまな演出効果、これまで交響曲には取り入れられたことのなかった楽器を使用しながら、そしてベートーベンの時代には考えられなかった2時間近い長大な構築物とすることによって、いよいよ交響曲の世界に正面から立ち向かうことになります。その記念すべきこの第2交響曲は、高音低音のタムタムや大太鼓小太鼓、またグロッケンシュピール(ハイジに出てくるアルプスの牛の首にぶら下がってるあれです)や鞭など、およそ交響曲には不釣合いな楽器を要し、また遠近感の演出にホルンやトランペット打楽器群を舞台の外にも配置し、80分を超える大作として生み出されました。
第一楽章は当初、交響詩「葬礼」として単独で演奏されていたこともあり、また第一楽章終了後には「5分間以上の休止をおくこと」という指示など、あきらかに他の楽章とは独立した扱いとなっている楽章なのですが、全曲を通して聴けば、他の楽章とりわけ終楽章とは密接な連関を持っており、古典的交響曲とは異なってはいるものの、高度に構築された(近代の)交響曲そのものとなっています。
また、この葬送あるいは「死」というテーマは、マーラーの全作品に共通して現れるテーマであり、世紀末という時代の空気ということだけではなく、現代人のもつ日常の対峙、つまり生と死、勇気と絶望、出会いと別れ、喜びと悲しみなど、2極の間に揺れ動く魂を啓蒙主義を超えた理性として捕らえようとする試みのように思えるのです。
第一楽章のおどろおどろしい世界とは対照的な短く美しい第2楽章も、グリッサンドを用いることで、美しい世界を仮の、あるいは嘘めいたものにしています。鞭の音で始まる続く第3楽章は、またもや絶望的な響きとなりますが、この楽章のモチーフになっているのが、彼の歌曲集「少年の魔法の角笛」であり、続く第4楽章に実際の歌として表現されます。この「少年・・・」のテーマの声楽の導入により、以降の第3、第4とあわせたこの3曲を「角笛交響曲」などと呼んだりもするそうです。(第5からはまたしばらく純器楽曲となります)そして、この第3楽章は、阿鼻叫喚に満たされたクライマックスで、いつ果てるとも知れない「世俗の喧騒」をもって次章に引き継がれます。
アルト独唱の入った安らぎに満ちた第4楽章を経て、いよいよ40分近くに及ぶ終楽章になるわけですが、例の舞台外の楽団の使用をはじめ、独立しておかれたはずの第一楽章との、複雑なジグソーパズルのような複雑な構築になっています。そしてまたもや、「闘争から勝利へ」「苦悩から歓喜へ」は、マーラーによってあっさりと裏切られることになるのです。1895年に自身の指揮で行われた初演は大成功を収め、当時指揮者としての社会的地位を確立しつつあったこととあわせ、いよいよ「マーラーの時代」がやってくることになります。そしていよいよ彼は、5年近くのハンブルグ時代に終止符を打ち、「音楽の都「ウィーン」を目指すことになります。
ちなみにこの曲は「復活」などと呼ばれていますが、これも第一の「巨人」同様、すっかりと忘れてしまってもいい言葉でしょう。なぜなら、マーラーは似非クリスチャンであり、また彼の交響曲は決して復活や救済などは目指してはいないのですから。
[CD聞いてみてちょ!]
■バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団(1987)
バーンスタインを育てたニーヨーク響との、ヨーロッパ凱旋後の再録音版です。ゆったりとしたテンポによる雄大な演奏は、それゆえ重く深い人生への想いと、シニカルなマーラーに潜む「寂しがり屋のマーラー」を垣間見せてくれます。朗々たる第一をおえ、中間2楽章を作曲者に寄り添うように降り終えたバーンスタインは、そしてまた、いよいよ終楽章へと自身の持つ全てで立ち向かいます。まさに荘厳にして崇高なる名演です。