2005.07.04
グスタフ・マーラー 交響曲 第10番 (1910年-未完)
最近全く投稿してなかったのですが、仕事が忙しいとか、いろいろ考えなきゃいけないことが多いとか、言い訳をあげればきりがないのですが、マーラーの未完の遺作を残すところとなったことも、実は言い訳のひとつです。(本当かな・・・)
この第10交響曲はしかし、シューベルトの第8のように、未完ゆえの大作として取り上げられることもなく、また5部からなる全楽章が演奏されたのは、なんとマーラーの死後50年の1960年になってからのことです。なぜこの曲が演奏されるまで、それほどの時間を要したのか。大きな理由のひとつに、マーラ自身がオーケストレーションを施した楽譜を残したのが第一楽章と第二楽章のみで、しかも草稿の段階だったからです。そして第3楽章から第五楽章までは、パルティチェルと呼ばれる5段楽譜の、いわば作曲したままの状態でしかありませんでした。ちなみにこのパルティチェルには、1909年にマーラー夫妻に勃発した、いわゆるグロピウス事件の痕跡が記録されており、第五楽章には「君のために生き!君のために死す!アルマ!」という名高い書き込みがあり、他にも「おお、神よ!なぜあなたは私を見捨てられたのですか?」あるいは「御心のままになされんことを!」というような書き込みがあり、事件の衝撃の中でこの曲の作曲が行われていたことを物語っています。
他にも、アルマ自身がさまざまな理由(や憶測)により、この曲が世間に出ることを長年拒んでいたこともあげられます。そして、1959年になって、イギリスの音楽学者デリック・クックにより、冷静な目でいまだ音となっていなかった楽章がフルスコアになることになります。これが現在演奏される際によく使用される「クック版」とよばれるものです。ちなみに国際マーラー協会は、第一楽章のみを楽譜出版しており、このクック全曲版は音楽家の中でもその正当性を論議されているようです。
そんな生みの苦しみを経て世に出された、マーラー最後の交響曲ですが、一般的に言われているようにいわゆる「遺作」であるとかいうような曲ではなく、交響曲の新しい夜明けを信じ、またそこに至る新たな道をおのずから切り開いていたマーラーが、相変わらず積極的精力的に新たな創作活動に取り組んでいた道半ばであることを感じさせる輝き溢れる素晴らしいものです。第9でほとんど形骸化させたソナタ形式を完全に葬り去ったかのような第一楽章から、消えゆくような第五楽章まで、彼の新たな挑戦と創造の空間が辺りを包んでくれます。難しい話は色々ありますが、19世紀の世紀末を越え、また新たな時代をいち早く感じ取り、そして自らが切り開いていこうとした彼の、最後の曲として、いや新たな時代の最初の幕開けの曲として、21世紀の今、あらためて浸ってみてはいかがでしょうか?「人生は芸術を模倣する」かもしれません。
マーラー交響曲全集(?)を完結するにあたって、死の半年前にマーラーがアルマに送った詩を引用します。かの関白宣言の手紙から8年。マーラーを理解する一助になれば・・・
夜の闇は力強い一言に吹き散らされ
衰えを知らず胸をえぐる苦悩も止む
僕の臆病な思考とたぎる感情は
ただひとつの和音へと流れ込む
君を愛す!・・・これこそ僕の讃える強さ
苦痛の中で勝ち得た生命のメロディ
おお、僕を愛せ!・・・これが僕の知る英知
その上で、かのメロディを僕に響かせたき基音
君を愛す!・・・これが僕の人生の意味となった
世界も夢も眠って忘れてしまえるなら、なんと幸福なことか
おお、僕を愛せ!・・・嵐の中で勝ち得た君!
幸いなるかな・・・僕はこの世では死に・・・そして港に着いたのだ!
[CD聞いてみてちょ]
■エリアフ・インバル指揮 フランクフルト放送交響楽団(1992)
この曲は、前述のとおり譜面の解釈が微妙で、ザンデルリンクやラトルなどは、クック版をベースにかなり個人的な解釈を施して演奏しているようですが、まずは譜面を忠実に再現してると思われるインバル盤です。知的で繊細な表現でありながら、この曲の持つスケール感がしっかりと伝わってきます。バーンスタインの男節とは対極であるかもしれませんが、最後の交響曲作家マーラーの残した最後の大作を、しっかりと伝えてくれるいぶし銀の演奏です。