2005.09.01
「人は学習する種である」(かも?)
Portreit In Jazz by Bill Evans (1959)
週の後半ですが、ここのところの睡眠不足がたたっているのか、ちょっとお疲れモードに入っています。朝からマイカップは落っことして割ってしまうし、机の脚にはなんどもぶち当たるし。午前中は事務処理に終われ、午後は某社社長と業務協力に関する打合せ、数件の面接、お客様と電話での打ち合わせ、提出書類に目を通し、メールのチェックに返信をしていたらもう夕方の6時。こうして「防災の日」は静かに(?)暮れてゆきました。
「人は考える葦である」と言ったのはかのパスカル。「人は学習する種である」と言ったのは何を隠そう私です。(そんなこと聞いたことない?そうかもしれません)いい意味でも悪い意味でも「人は学習する種」なのです。(かも?)いい意味では、たとえば子供のとき最初にひらがなを覚え、次に漢字を覚えます。四則演算を覚え、対数・指数を覚えます。これは教育と言う半ば強制的に押し付けられる学習かもしれませんが、人は基本的に次から次へと学習を進めます。つまりひとつの学習が次の学習のベースとなり、より高次へあるいはより違った展開へと自らを進めてゆきます。これが人類を知識や文化の面で進化させ、他の種とは異なるものへと導いた大きな一因であることは疑いのないことでしょう。一方で「水に入れた蛙を火にかけると、逃げることなく熱死してしまう」という逸話があります。人は心地よいことを学んでしまうと、それをよしとし、そこから出なくなってしまうと言うことです。
学び身につけてゆくと言うことは実は楽しいことです。(と思うのですが・・・)次から次へと違う自分を発見し、違う世界が見えてきます。また一方で、今の暮らしをよしとし、それを心地よいと感じあるいは割り切り、そこにとどまることも可能です。「所詮、どうがんばったところで数十年の人生で出来ること知ることなどはたかがしれている。」確かに、数億年の人類進化の過程の中で、数十年の人の一生など、蚤のふけほどのものでしかないかもしれません。しかし生前に確かに輪廻を約束された人などいないはずで、そうなると人の一生とは、その人の世界の始まりから終わりほどの長き道のりであり、宇宙で言えば数百億年の長き時間が、人には数十年に凝縮されているのです。今日の自分が昨日とは違っていること、昨日の自分が幼く見えること。「がんばること」が必須ではないと思います。変わること、学ぶことに対して素直になることで、それはきっと起こるはずですし、そんな環境を社員やお得意先にも提供することが出来る会社にしたいなと、つねづね思っております。なぜなら「人は学習する種である」はずですから・・・
さて、ペッパーですが、最後の一枚「among friends」がケースしか見当たらないため、今日からいよいよBのクラス、トップバッターは「ビル・エバンス」の「Portrait In Jazz」です。そもそも(多いよね、このフレーズも・・・)JAZZピアノを弾く者は、まずはパウエル派と呼ばれ、そして60年を境にもう一派のエバンス派となります。エバンスも出発点はパウエルなのですが、彼独自の研ぎ澄まされた感性により、独特の世界を築いてゆきます。フレージングやさまざまな音の出し方にも彼独自の妙がありますが、彼らしさのひとつにこれまでリズム隊と呼ばれ、ピアノあるいは管楽器をサポートしていたベースと太鼓を、ピアノに呼応しながらそれ自身の音が曲をリードするような、そういうフォーマットを始めたことでした。これにはもちろんスコット・ラファエロとポール・モチアンという名手がそろったこともそれを可能にした理由ではありますが。マイルスバンドでモードを身につけた彼が、マイルスを卒業し作った彼のトリオ。その手始めがこの「ポートレート・・・」でした。すまし顔のエバンスがポートレート風に写った印象深いジャケットと、まだまだパウエル的と言うか、彼のタッチがことのほかハードであることを教えてくれる「Autumn Leaves」の名演。全11曲のどれもが、「モード」でも「ファンキー」でもない「エバンス」へと向かってゆく鼓動を感じさせるアルバムです。このあと3人の感性の極みと、挑発と言う別名を持つインプロビゼーションの波は頂点へと向かうことになります。