2005.11.24

COLUMN

「演繹か帰納か、それが問題だ!」

A CHANGE OF HEART by Devid Sanborn (1987)

あと1週間で12月になります。今年も残すところあとわずか・・・とはいえ、1年の12分の1はしっかりと残っているわけですから、回りの空気に流されてバタバタしないよう、しっかりと一日一日を大切にしてゆきたいものです。今日はほぼ一日をデスクワークで過ごしました。夕方、某案件に関する社内ミーティングに営業ミーティング。夜は中小企業家同友会の支部例会に出席しました。ぶっつけ本番の趣旨説明、舌足らずで申し訳ありませんでした。

前記の今夜の例会で行われたグループ討議に参加して思ったことは、「私はあまりにも演繹的に物事を進めようとしすぎてるのかな?」ということです。演繹的と帰納的。以前、「失敗の本質」のなかでも触れましたが、演繹的とは「ある既知の一般法則をもとに個別の問題を解いてゆくこと」、帰納的とはその逆で「帰納した事実を積み重ねることによって一般的な法則を見つけだすこと」という風に定義されています。

私自身の生活を振り返ってみると、どうしても初めに目的・目標ありきというか、到達すべき理想の姿をイメージし、それに向かって一つ一つを解決し積み重ねてゆくというパターンがほとんどです。これをO型の法則と呼び、「人参吊るすと、どこまでも走る」などと自分を揶揄したりしていました。ところが今日のグループリーダー宮西さんのミーティングの進め方は、明らかに帰納的でした。一つ一つの身近なことを積み重ねてゆき、結果として結論を導き出す手法。そういえば、これまでの役員会などでの内容に私自身違和感を感じたのも、そういうことが原因だったのかもしれません。これはどちらの手法がよいとか悪いとかの問題ではなく、アプローチの仕方の違いなのです。演繹的に考えると、なかなか出てこない結論にいらいらするし、帰納的に考えると答えはいずれ出すものなのですから。問題はそこだったのです、春田さん!

以前の「失敗の本質」では、米海軍の演繹的に対し、日本軍特に旧陸軍の帰納的云々という結論を書きましたが、これはどちらがいい悪いではなく、お互いに補完しあうべきコインの裏表ですよね。それなのに私は、自分の生き方、考え方をすべて演繹的に沿わせてしまっていたことにはたと気がついたのです。社内での会議やミーティングでも、どうも先に結論ありきで引っ張ってしまっている。確かにそれは、私自身問題意識を持っていました。

規模の大小を問わず、企業のTOPは常に目の前の問題に対し、時間の猶予もなく次々と結論や方向を出してゆかなければならない場合が多く、その判断基準を常に演繹的に考えがちなのですが、せめて決断まで少しの猶予があるものは、ときにはまったりと帰納的に考えてみることにします。さて社内会議が変わりますかどうか・・・

今夜も連チャンでサンボーンです。今夜のアルバムは彼の87年の作品。先日の「Hideaway」の頃のクロスオーバー時代は過ぎ去り、時代は明らかにフュージョンでした。彼独特のアルトの音色は変わりませんが、さまざまなものがデジタル化し、いわゆる打ち込み系の音作りになっています。このアルバムの特徴は、4人のプロデュースによる作品ということで、4人のうち一人はあのマーカス・ミラー、また当時売り出し中のフィリップ・セスはこのアルバムにロック色を強く流し込んでいます。この時代になると、本当にJAZZとかPOPSとかジャンルわけすること自体がナンセンスといえばナンセンスなのですが、コアなJAZZファンが50年代回帰したのもうなずけます。ただ、さまざまな音楽がグローバル・ミュージック化したことも背景にはあるのです。もちろんサンボーンのコアであるR&Bの血は流れ続けており、彼をただのスタイリストに貶める訳にはいかない、なかかなの出来になっています。ちょっとヘビーでお洒落なドライビングBGMに!

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