2006.03.22
「熱きストイック、求めたものは・・・」
AFRO-CUBAN by Kenny Dorham (1955)
昨日は春分の日でしたね。私は先週、お墓参りは済ませましたので、昨日は密かに仕事なんぞしておりました。WBCは白熱した試合でした。誰かが言ってましたが、高校野球のような真剣さを感じた、素晴らしい試合でした。金メダル奪取となると、王監督のこととか、松坂投手のこととか、いろいろまた語ることがいっぱいできるのですが、私がすごいなと思ったのはやはり「イチロー」選手です。
メジャー組をはじめ、国内選手でも辞退者が多く、王監督も一時は辞退しようかと迷ったと聞いています。そんな中で、あえて憎まれ口もたたきながら、チームを引っ張っていった「イチロー」。この間の「ヒデ」みたいなもんですよね。韓国戦に破れ、「自分の野球人生の中で最も屈辱の日」といい、「不愉快」と吐き捨て、またキューバを破っては「人生最高の日」と語る熱き男。そして、子供のような笑顔。監督も選手も口をそろえて言ってたように、それはそれはものすごいプレッシャーだったと思います。「オリンピックは参加することに意義がある」なんて甘っちょろいこと、誰一人思ってなかったはず。それを「プロとして許されない」とまわりを鼓舞しながらも実は自分に一番言い聞かせ、プレッシャーを受ける物から、挑戦するものに変えてしまう男。誰にでも真似のできることではありません。少なくとも私にはそんな勇気はない。
「チームプレー」とか「真剣さ」とか「勝利への執念」とか、いろいろ勝因はあるとは思いますが、私はあえて一言、この「困難に立ち向かう勇気」ではなかったかと思います。これを多かれ少なかれ、チーム全員がもてたこと。それはもちろん「イチロー」から溢れ出、零れ落ちていったものであり、また「イチロー」独特のチームマネジメントだったのではとも思います。かっこ悪い言い方ですが「死に物狂いで、必死になってやること」。だから決勝戦の相手はどこのチームであっても日本は勝利したと思います。個人の力は、キューバやアメリカ、韓国にさえも劣っているかもしれません。しかし日本はどこのチームよりも全員がひたすら「必死」だった。それが勝因だったのではと思います。
「イチロー」が変わったと言われます。「個人」に向いていたものが「チーム」に向かい始めたと。確かにそういうところはあるでしょう。でも私は、本質的には変わったとは思いません。彼は相変わらず、求道者のようにストイックに、自らがとても到達できそうもない目標を自らに課し、ひたすらそれに向かってゆく。チームが、グラウンドが、そして目の前のゲームの目的が異なっただけのような気がします。そんな彼を素晴らしいと思うし、かっこいいと思うし、そんな彼が惚れこんだ「野球」というスポーツは、やっぱり素晴らしいものだと思います。
そういえばこのブログ、なんか写真も背景色も変だなぁ、なんか変わりましたっけ???(笑)いよいよアイランドリーグも開幕だー!
今夜はケニー・ドーハム。40年代、トランペッターの誰しもがガレスピーを追いかけ、彼のようなハイノートをヒットしまくれる唇を持ち得なかった多くは、無意味なフレーズの残骸を山と積んでいました。マイルスと同様、ドーハムもその例に漏れず、マイルスの後継としてパーカーと組むようになっても、不器用なプレイに終始していました。その後、コルトレーンやマクリーン同様、モンクのもとでオリジナリティを掴んだ彼は、ビ・バップの反体制的で攻撃的なハイトーンではなく、ちょっと陰りのあるしかしそれは来るべき「ハード・バップ」の匂いに溢れた独特の音色を確立します。そんな彼が花開くのは55年録音の初代「ジャズメッセンジャーズ」での活躍。その半年ほど前に、JJ.ジョンソン、モブレイの3管にシルバー、ブレイキーを従えた、もうすでにメッセンジャーズな初リーダーアルバムがこの「AFRO-CUBAN」です。リーダーがブレイキーじゃないから、「カフェ・ボヘミア」にならなかっただけで、それはそれは熱い演奏が繰り広げられています。9曲中8曲が彼のオリジナルで、55年当時にすでにミシシッピーからフロリダ沖に視界が向いていたのは驚きでもあります。コンガとブレーキーの瀑布、抜きつ抜かれつの3管4管のデッドヒート。またしても、かっこいいぞリード・マイルスのジャケット。55年の春は、「イチロー」なみにめっぽう暑かった・・・