2007.01.05

COLUMN

「コミュニケーション・・・伝えるということ」

昨日は新年初日でした。社員全員で近所の氏神さまに恒例の初詣。その後は定常業務。私は午後から夕方まで、早速のサポート数件にお年始など。仕事始めが無事終りました。(?)

昨日の1件のサポートは障害を持つ方でした。私の言うことは理解されているようでしたが、車椅子で手も自由には動かない。不自由な足を使ってマウスをなんとか操作されます。言葉も「そこ・・・」とか「ちがう!」とか単語を話されるのがやっと。それも一生懸命踏ん張って、苦労して苦労して話かけられるのです。機器設置を済ませ、数件のご質問にお答えしておいとまさせていただいたのですが、あらためて思ったことは「コミュニケーション」という言葉の意味でした。今更なのですが・・・。

私たちは毎日、周りの人間と当たり前のように会話し、思ったことを口にしています。特に「コミュニケーション」したいとか「思いや考えを伝えたい」からなどとあらためて思うことはまれです。説得やお詫びの時にはそうでもないかもしれませんが、まあそういう都合のいい時や悪い時だけって感じ。普段は、なんなら伝わっても伝わらなくてもいいや的にしゃべってませんか?これって私だけ?

自分以外の「個人」と理解しあうことの大切さ、難しさ。そんなことを「仕事始め」にあらためて感じました。今年はちゃんと誰かとコミュニケーションできる人間になろう!えっ、そんなこと出来て当たり前?「お前、社長だろうが・・・」いやはや、今年もトホホなりです。

今日は昨日に引き続き、上杉謙信公家16か条のその2。

「心に我儘(わがまま)なき時は愛敬失わず」

ここには「我儘」と「愛敬」という二つの言葉が出てきます。もちろんこの時代の言葉として読み取らなければならないのですが、まずこの時代の「我儘」とは人や世の中を人を自分の思うようにしようとする心のことでしょうか。また「愛敬」とは、いつもほがらかニコニコしていると言う感じですが、本来は仏教用語で「愛しみ敬う」ということなんですね。観音菩薩や阿弥陀如来のあの柔らかな表情のことです。

仏教では人は生まれながらにして数多くの煩悩を持っているとされています。108つもあると言われる煩悩の中に「我儘」もあるのでしょう。つまり普通なら当たり前に持って生まれてしまっている「我儘」な心を捨て去りなさいと。そうすれば、穏やかで誰からも愛される「敬愛」を持つことが出来るかもしれないということでしょうか?

「男は度胸、女は愛敬」と言います。(今の人は言わない?)「愛敬」は「愛嬌」とも書きます。仏さまの柔和で慈悲深い表情、誰もが知らず知らずのうちに思わず敬愛せざるを得ないような相を「愛敬相(あいぎょうそう)」といい、ここから現在使われるような意味になったそうです。「愛敬」とはどうやら振りまくものでもなさそうです。

ああ、やっぱり私は猫科の動物だなぁ〜・・・・???

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