2007.02.16

Books

「賢者の石」 その2

お問い合わせをいただきました。なんで「賢者の石」がただのSFじゃなくて、思想小説なんて言ったのか?作者ウィルソンは、物語そのものではなく、実は主人公ニューマンにそこここでこれを語らせています。

「周囲の人々に対する私の態度は、とても我慢できぬ不寛容から、哀れみへと変わっていた。文明はこの人たちには速すぎるペースで拡大したのであり、この人たちの活力はそれについてゆけずにいる。(中略)20世紀のペシミズムは、いわば消化不良からきたばかでかいげっぷであった。」

「私は、この巨大で美しい客観世界の前で自分がいかに小さなものであるかを感じ、その想いに圧倒された。この宇宙の主な奇跡、それは、ほかでもない、私ばかりか、この宇宙も存在しているのだということにつきるのだ。宇宙は夢なのではない、一つの大きな庭園であり、その中に生命が足がかりを得ようとしているのだ。」

「各人が自分自身の幸福ばかりか、他人のそれに対しても同じくらい気を遣うようになるほど深い同情と共感を全人類が互いに感じるようになったなら、すべての人が他の人間を母親が自分の赤児を扱うように−深い、あけっぴろげの共感を持って−扱うようになるだろう。」

「この地球上には、樹があり、草があり、河があり、寒い朝には霜が、暑い朝には露がある。そういう素晴らしい世界に囲まれていながら、私たちは薄汚れた狭苦しい人生世界の中で生きつづけ、政治を論じ、性の自由を云々し、人種問題で言い争っているのだ。もはや疑いもなく、”大いなる変化”の時が迫っている。」

その為に彼は、社会システムや自由主義などのイデオロギー、つまり集団としての人類の進歩よりも前に、個人の自己の確立とその能力のより高みへの昇華が、今必要だと訴えます。そのように確立した個があってこその、ユングの言う集団的無意識が、よりよい社会への変革を促してゆき、あるべき民主化、あるいは種としての人類の進歩への道が開けると。

20世紀は、まさしくこの「個」の確立が足踏みをした時代ではなかったでしょうか? 社会システムや経済活動が、とくに世紀末になって急激に広域化・高速化・高度化したにもかかわらず、人としての「個」は、半世紀いや1世紀前からいくばくも成長を遂げていない、むしろ未成熟な個が世に溢れかえるようになってしまってはいないでしょうか?

政治や経済の最前線で、子供にも劣る発言や行動で名士が失脚する。固まっていない殻が、社会という外気に触れただけで、孵化しないまま黄身をさらけ出し、「キレた」とか「やった」と言い訳にもならない言い訳をいう。いつまで経ってもひとり立ちしない人の子は、夢は与えてくれるものだと勘違いして、だだをこねながら働くことも学ぶこともしない。この物語の作者が半世紀も前に、こうやって警告したにもかかわらず・・・。21世紀は社会システムではなく、一人一人の個の成熟と進化の100年にしたいものです。集団としての社会工学でも集団心理学でもなく、また医療に根ざした大脳生理学でもない、個の確立のための学びを。そうしないと、本当に「古きものども」が目覚めてしまいますよ。

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