2007.03.07

COLUMN

「個人主義と社会システム考」あるいは「がんばれ、社会学!」

昨日のニュースで、大学生の官僚、いわゆる一種キャリア離れが進んでいると言う話題が取り上げられていました。学生の言い分を聞くと「ごもっとも」なわけですが、そこで気になったのは自由主義の中の個人主義の進展です。個人主義というのは別に今に始まったわけではなく、現代の社会システムがそれを許容するようになったから目立つようになっただけのことです。ただ、「社会」とか「国家」、「民族」の概念が希薄になる中でのこの「個人主義」の台頭には、若干の危惧を覚えます。つまり、思想(イデオロギー)と社会システムのバランスがなくなり、社会システムがどんどん消失する中で、個人主義というイデオロギーだけが亡霊のようにあちらこちらを彷徨っているような気がするのです。

今読んでる本では、明治の終わり頃に、急速に進展する西欧化の中、この「個人主義」あるいは「利己主義」の流布に警鐘を鳴らしています。ただ、その後は皆さんご存知の通り、日本は国家主義といいますか国粋主義、民族主義などが声高に叫ばれ、全体主義なるものに姿を変えていったとき、その言動は外から見ればただの「帝国主義」になってしまった。現代のこの個人主義を180度ひっくり返し、かつての帝国主義に舵を切ろうなどとは思ってもいませんが、個人が社会や国、隣近所から始まる民族の意識をなくしたとき、「地球人」という耳障りのいい言葉とともに、「利己主義」の峡谷へとまっさかさまに進んでいってしまうような気がします。

最近、この「個」の確立に関することをよく考えます。そのためには、哲学や心理学も必要でしょうし、大脳生理学も必要不可欠だと思います。しかし一方で、あまりに科学的・工学的になってしまった社会学を、もう一度「心の集団」を考えるものに戻す必要があるような気がします。それは、流行の本のような個人のセラピーの話ではなく、集団の社会性を心の集合の問題として捉えなおすと言うことです。もちろん、難しすぎて、私には答えは見つけられそうにないのですが・・・。

一本の木から森は成ります。一本の木が育てば、森も育ちます。しかし森自体は木とは異なるシステムを持っているのです。下草も必要だし、動物や昆虫の営みも必要です。この、森がすくすくと育つためのあるべきシステムとは・・・。

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