2007.04.05
武士道の逆襲
以前の新渡戸稲造の「武士道」に続き、菅野覚明著「武士道の逆襲」の2度目を読みました。「武士道」のところでお話したとおり、結論としてわが国における「武士道」とは、結局のところ戦闘者としての武士の心得であり、武士という職業あるいは生き方、ひとつの「階級的思想」でしかありえないということです。新渡戸稲造や内村鑑三らによって求められた、「武士道に接木されたキリスト教を持って、我々日本人が世界を救済する」という思想も、結局日本人キリスト者の世界を一歩も出ることはなかったということです。
もちろん武士が武士らしく生きることを突き詰めていった「武士道」なるものに、私たちの学ぶべきことはあります。
武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわって進む也。(「葉隠」聞書1-1)
有名な一文です。これは決して死ぬことへの覚悟だけを語っているのではなく、己や一族の存亡を自ら脇に差した刀一刀で支えてゆかなければならないという覚悟であるということなのでしょう。武士は勝ち続けなければならない。一度でも負ければ、それは即「死」を意味します。人とは弱き存在であり、誰かに支えられて生きてゆかなければならない。そのことがわかっていながら、なおかつ己の存在を己一人に課する厳しさ。優しさや和合に流される現代社会において、我々はこういう「一人立つ」厳しさを忘れてしまっているような気がします。
武者を心がくる者は、第一うそをつかぬもの也。いささかもうろんなる事なく、不断理致義を立て、物恥を仕るが本にて候。(「朝倉宗滴話記」)
戦国時代の戦いでは、孫子の兵法などに従い、策略や味方までも欺く戦術が一般的でした。ですから、武士達はある意味嘘をつかなくはない。しかし、彼らが結果求めたものは逆にまごうことなき「事実」であり、「説明やいい訳」などではなかった。生きるか死ぬかの瞬間において、嘘は命取りだから。騙す騙されるはあるにせよ、その根底には「事実として勝つこと」その、嘘偽りのない真実があるということでしょうか?戦いと言ってもスポーツくらいしか浮かばない、平和ボケした私達は、単に「正々堂々」戦うことを正義とされ、逆に奥底にある自己の魂の存亡をうやむやにしてしまっている。かつての武士のように、「妻子の為におぬしに切りかかり、われは勝ちて生きる」と素直には言えない、現代はそんな時代なのです。
恋死なんのちの煙にそれと知れつひにもらさぬ中の思ひを
恋焦がれたまま死んでしまおう。最後まで知らせることのなかった胸の内は、自分の亡骸を焼く煙を見て悟ってほしい。
「葉隠」の著者、山本常朝はこのような想いこそが武士の本分であり、思いを共にする家臣たちを「煙仲間」と呼んだそうです。携帯電話、メール、etc。情報化社会と欧米流の説明ありきの世の中。私たち日本人は、「奥ゆかしさ」とか「言葉少な」のなかに、どれだけ多くの思いを込めてきたことでしょう。それが「俳句」や「和歌」という文化を生み育んできた。「ちゃんと言わなきゃ、わからないじゃないか!」確かにそうです。しかしその前に、そもそも私たちは相手を理解しようと努力しているのでしょうか?
「武士」という特殊な存在。気に入らないことがあれば「問答無用」と刀を抜いて切りかかってくる、まことにもって理不尽な存在。しかしその根底には、人としてこの世に生を受けたものが、いかにして己を律し生きてゆくのか。戦場という異常な生活環境を通して、人らしく生きるための処世術を求めた存在。それが武士であり、武士道だったのです。