2008.06.16

COLUMN

「ガダルカナル」

週明け月曜日は社内清掃・朝礼に会議。午後からは高速移動でお得意様訪問。夜は同友会の6月度例会に食事会。あっという間の一日でした。

先日のこと、ネットを見てると「ガダルカナル○号」がどうのこうのという文字が・・・。そういえば、以前から「ガダルカナル」なんとかって芸能人もいましたが。私的には、不謹慎極まりないといいますか・・・。

「ガダルカナル」と聞いて、南太平洋ソロモン諸島の島を思い浮かべてしまうのは、私のような戦中派の少数派になってしまったのでしょうねぇ〜。(爆)

「アッツ島」「サイパン島」「テニアン島」「タワラ島」「グァム島」「硫黄島」・・・。

これは観光名所ではありません。太平洋戦争時に日本軍守備隊が、いずれも「玉砕」した島々です。

「玉砕」とは・・・

軍歌「敵は幾万」より

敗れて逃ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身のほまれ
瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬ事は 武士のなすべき道ならず

要は、「敵の捕虜になどなることなく、最後の一兵卒まで弾も武器もなく竹やりを持ってでも、敵に突入し国の為に死すべし」ということで、全員が死亡、部隊が全滅するということです。個人に対して、「国人としての美」を求めた、凄惨な戦いの結末です。

しかも、南方(アッツ島はアリューシャン列島)は1924年6月のミッドウェー海戦での帝国海軍の敗戦以来、制海権も制空権もなく、弾薬どころか食糧の補給路もたたれました。

1942年8月から12月の5ヶ月間に渡った戦闘で、

戦力:日本軍3万6千 vs 米軍6万

戦死:日本軍2万 vs 米軍千数百

うち日本軍餓死者1万5千超

「ガダルカナル島の戦い」と呼ばれる日米の攻防戦では、日本軍は「玉砕」こそしませんでした。しかし、戦死者を上回った戦病死のほとんどは、餓死といわれていて、後にこの島は「餓島」と呼ばれていたのです。

「そこら中でからっぽの飯盒を手にしたまま兵隊が死んで腐って蛆がわいている。」

「ほとんどの部隊では、ふらふらと何とか歩ける兵士はすべて食糧の搬送に当たり、陣地を守るのは、立つこともできなくなった傷病兵という状態に陥っていた。」

「やっと手に入れた食糧を戦友のもとに届けようと最後の力を振り絞り、背中に米を担いだまま絶命する兵士もいた。」

当時の兵士たちの間では、こんな生命判断が流行っていたそうです。

「立つことの出来る人間は、寿命30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。またたきしなくなったものは、明日。」

私たちは今、昭和の戦争を経て戦後復興の繁栄の上に築かれた平和を享受しています。しかし今から60数年前に、ふるさとを遠くはなれた南方の島で、敵と戦うこともなく、飢えて死んでいった多くの若者がいたことを、決して「歴史」の教科書に中だけに封印してはいけないと思うのです。

私は「戦争絶対反対論者」ではありません。「男」は戦うことをサガとして生まれた哀れな生き物です。ですが、悲惨な事実、誰かの判断による国としての凄惨な結果は、記録としてきちんと伝承してゆかなければならないと思います。

数万人の餓死者を出した愛媛県ほどの大きさの南の島は、今も何ひとつ語らずに、穏やかに「人の命」を見つめています。

それでもあなたは、笑って「ガダルカナル!」と言えますか?

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