2009.09.13
ミュンシュの幻想
ベルリオーズという作曲家が作った交響曲に、「幻想交響曲」というものがあります。曲自体の生い立ちなどは別掲にゆずるとして、クラシックのコアなファンを標榜する方は、決して「好きだ」とは言わぬであろうこの軟派な曲が、私は大好きです。
いや、それには実は但し書きがついていて、カラヤンやデュトワの振った「幻想」は、あまたの素晴らしい楽曲となんら変わりはなく、ただ一曲ただ1枚、1967年にミュンシュがパリ管とともに記録した「幻想交響曲」が、クラシック音楽の枠を超え、私をすっかりとりこにしているのです。
楽譜というものが発明されてから、作曲家たちは自らの創造活動を時間軸の中に音符の配置というカタチで記録し、それを後の誰もが再現することができるようになりました。とはいっても、どの演奏もすべて同じではなく、指揮者の解釈や表現、オケの持つ特色や音色、楽団員の個々人や総体としてのレベルによっても、結果演奏される曲には大きな違いが生まれます。何なら別の曲かい?というほどの違いも。
その楽譜なるものは、基本的に指示された速度で時を刻んだ横軸の上に、それぞれの楽器の音符が記され、そのタイミングでその音を発するように指示されています。これをそのままデータ化すれば、コンピューターだとオーケストラを表現することはたやすいことでしょう。しかし、その演奏が全く人の心に届いてこないであろうことは、想像に難くありません。
人は規則正しいものをそもそも受け入れることが出来るのか?
コンピューターの心臓部は水晶発信機であり、この水晶発信のタイミングに合わせてすべての処理を始めます。それは寸分の狂いもなく正確です。この水晶体となるのが人間にとっては心臓の鼓動でしょうか?実際その鼓動のタイミングで人は物事を考え始めたり、感じ始めたりするわけではないので、正確にはコンピューターとの比較にはならないのですが、人の鼓動のリズムが人の生命活動に大きな影響を及ぼしているのは間違いないでしょう。
その心臓の鼓動は、ご存知の通り規則正しいわけではない。1分間に60回打ったと思えば、次の瞬間には120回のペースになる。穏やかな時間の中で、60回のペースを保っているようでも、一回一回の鼓動には微妙なずれがあります。揺らぎと言ってもいいのでしょうか。そんなずれを持ったのが、生き物としての人間の本質だと思うのです。
何をくどくどと書いているのか。これは冒頭でお話したミュンシュ・パリ管の演奏を私が正当化するための無謀な論理展開なのです。この曲は、全体としてはスコアの通りに演奏されていながら、実はそれぞれの楽器のタイミングやフレーズが、ビミョーにずれているのです。
漫然と聞いていたのではわかりません。かといって「さあこい!」とばかりに構えていては、目の前で戦いの火花と散ってしまうことでしょう。お勧めは、ヘッドフォン。それもちょっと値のはるいい音のヘッドフォンです。
さて普通、それぞれの音やタイミングがずれていたら、聞くに堪えない演奏となってしまいます。にもかかわらず、この演奏はじわーっと私の体にしみこんでくる。もしかするとそれを不快だと感じる方もいらっしゃるかもしれません。むしろデュトワの演するクリアーな曲の方が自分には向いていると。
この違和感なき同化現象は、よく言われるベートーベンならフルベンというお話と同じなのかもしれません。私的には溶鉱炉から流れ出たような、熱い音の塊であるフルベンは、なかなか受け入れがたいものがあるのですが、もしかするとそこには、ミュンシュとは異なる、からだの中に自然に取り入る何かの秘密があるのかもしれません。
たかが、1枚のCDのお話です。でも、初心者のための名曲名演を集めた200枚ほどの私のクラシック・ライブラリの中の、不思議な1枚なのです。
そして、2枚目のそんな曲を探すことが、クラシックを巡る私の次の旅の目的かもしれません。
おすすめ平均:
幻想・幻覚・妄想交響曲 ミュンシュの熱い演奏
異様な熱気溢れる名演
幻想交響曲と言えばまずこの盤でしょう
ゴッホの絵を思わせる、強烈な色彩が渦巻く演奏
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