2009.09.15
「愛の無常について」 亀井勝一郎
かつて大学生の頃に読んだエッセイを、久しぶりに書庫から引っ張り出して読んでみた。
「『愛』という言葉ほど濫用されている言葉はありますまい。」
私たちの身の回りで見聞きしない日のない言葉、「愛」。著者はその意味なき濫用を嘆く。
「人間は一体人間を愛することが出来るのか。」「出来るとすれば、その可能性はどこにあるのか。」
自らに投げかけた命題を、人間の本性をえぐりながら明らかにしようと試みる。そして得た「愛」の定義とは、
「愛するということは、全自己をあげて永遠に愛しようとすることでなければならぬ。愛の可能性とは、愛の永遠性の可能性のことです。」
彼によって定義された愛、愛の永遠性を断言した美しき瞬間とは、心のどこかに死への誘惑を潜ませており、それゆえ彼は「愛とは美しき瞬間における死である」とも言い切る。
つまり永遠でなければ存在しないにもかかわらず、実在としての永遠などはない。それはむしろ死によって完成されるものだと。
「幸福とは、どのように勿体ぶった理由を附そうとも、本質的には快楽追求であり、快楽はいかに刹那的であろうとも、幸福感を招くに足るものでなければ、人間は納得するものではありませぬ。」
しかし彼が肯定する快楽とは、無気力からくる戦慄の追及でも敗北感から来る嫉妬の夢想でもない。能動的に追い求め、たゆまぬ努力と苦痛を伴うものだと断言する。つまりそれが「愛」のひとつの側面、あるいは姿でもあると。
そしてまた、世の常である物事の2面性において、「愛」は「能動的快楽」でありまた死の誘惑をはらんだ「無常」であると説く。
そう、少なくとも「愛」とは今夜もあちらこちらでささやかれる携帯の絵文字のような暗号なのではなく、もしかすると「永遠の無常」なのかもしれない。
かつて、愛と蒼き欲望の狭間で揺れていた二十歳の頃、この本に触れた私は、誰彼無く「愛」という言葉を使えなくなってしまった。
自らの今わの際で、「お前を愛したよ、心から愛したよ。」としか愚かな自分には言えないと。そんなことを、そんな時代があったことを今、思い出す。
あなたにとって、「愛」とは?「永遠」とは?