2010.01.02
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」マックス・ウェーバー著
年の初めのためしとて・・・といっても、しばらく前から読み始めたのですが、難解ゆえ1日1ページとかの日もありーので・・・。
要は皆さんも世界史の時間に習った16世紀の「宗教革命」。ここからキリスト教はカトリックとプロテスタントという大きく二つの流れになったわけですが、そこから始まったプロテスタントの流れが近代資本主義の発展の礎となったという社会論の本です。
プロテスタントの中でもカルヴィンの唱えた「予定説」によると、神により救済される人間と言うのは所与のものであり、その人の意思や努力、善い行いでそうなるものではないという。
では自分はその選ばれた人間なのかどうか?それを確信するためには、禁欲的に労働に励むことにより、神の栄光を現世に表す。そうすることによって、自分自身が救われているという確信を持つようになるということなのです。
こうして得た収入は、禁欲的な使途に、つまり再び禁欲的な労働に還元される。この倫理観が16、7世紀の資本主義黎明期にそのイデオロギーと合致し、特にカルヴァニズムが発達したイギリスやアメリカで資本主義が発達したもとになったという学説なのです。
では最近のアメリカのウォール街に象徴される倫理なき功利主義は一体どういうことなのか?それはその根幹となっていた宗教信仰心の低下により、そもそも結果でしかなかった、あるいは「内からの動機」であった営利追及が自己目的化し、気づかないうちにあるいは自然のままに「外圧的動機」へと変貌したにすぎないのです。
儒教では「義」を重んじることにより「利」を得ると教えます。最近のどこかも国を見ると、本音と建前でこのへんを使い分けているような気もしますが、文化大革命以降は弾圧の対象でしたので、そんなことになってしまったのかもしれません。
さて、国民のそのほとんどが無神教に近い日本の場合、この問題をどう捉えるべきなのか?
我が国では長く「儒教」の教えが同様の倫理観を支えていたように思います。ただしあくまでも宗教としてではなく、武士道の萌芽となった、あるいは「教育勅語」などの根底となった学問としてです。
個人的には今この時代に「朕の為に」を持ち出すつもりはありませんが、プロテスタントを失ったアングロサクソン、儒教を失った中華思想の大陸人、そして何のバックボーンもない倫理教育を進める私たち日本人の、新しい年2010年はどこに向かってゆくのか?
少なくとも個人として、家族の一員として、職場の構成員として、地域の一員として、年の初めの休日を「義」と「利」についてあらためて考えてみる日にと思いつつ・・・寝正月の毎日です。トホホです。
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特許としての資本主義
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宗教的意識内容(心理的動機)は、例えば資本主義の発展に対して巨大な影響を与えた。
最後の人間、同時代への驚愕から生まれた研究
資本主義はどこから来たのか?資本主義とは何ものか?資本主義はどこへ行くのか?
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